昭和39年12月23日 朝の御理解



 昨日が冬至だったんですね。冬至にはカボチャを食べるもんだと昔から、どう言う事からカボチャを食べるのか知りませんけれども。昨日一昨日吉井の熊谷さんが見事なカボチャをまあ、それが時のカボチャの様にもう青々として。大きなカボチャなんです大きな。あの冬至にあがって頂くとに、というてからあのお供えを頂きました。「どうして、今ごろこんな見事なかぼちゃが出来たんですか。」
 「いやあの始めは作るという、気持ちはなかったでしょうけれども。まあおそうから根のついたのでしょう、それからどうでもこうでも冬至に一つ、頂けれるようにと思うてから。もうあのビニールをかぶせましてね。そしてそのと心がけて、この寒中にあのかぼちゃが見事に出来た」というのです。おかげで昨夜はその、一同そのカボチャを頂いたんですけれどもね。
 まあカボチャと言えば、まあ詰らんものの代名詞のように言われております。ね。まあいうなら、ありゃちったボウフラんごたるのうなやっちゃ、ありゃばかなごたるやっちゃあると言う様な時にこの辺ではそう申します。ボウブラのごたるやっちゃあるねち言うてから。けれどもその、ボウブラのような者でもです。矢張りあの導きを教導一つではお役に立つ。わけなんですね。
 ほうからかしておったのではとても、今ごろこの寒中にかぼちゃが実る、出来はしません。本当にあの「馬鹿とはさみは使い様」と言った様な事を申しますけれども。本当にその心して、私達はおかげを頂かなければ、ならないと言う」事ですね。ね。信心でもそうです。もう私んごたるとはつまらんちいうごたる事はないもう、本当にもう神様のお育てを頂けばですね。
 もうどういう人がどういう風に、信心を育っていくやら分からない。神様の手にかかれば。本当にどう言う様な人でもお役に立つ様に、お育てを下さるのですね。そこで私はその、御用に立たせて頂くのは矢張り私共であると。神様が直接手を引っ張っていくわけにもいけないし。ね。いちいちものをいうてからああだこうだというて、教えを説いて下さるわけでもまいりませんのですから。
 そこはやはりここでいうなら、私が手を引いてまたはいうて聞かせて、褒めてやったり怒ってやったりしてから。育てていくという御用を承る訳なのですね。そこでそのまあいうなら、その先生の信心一つで信者も育てば。つまらん信者つまらん信者ちゃおかしいけですれども、あの、育つものもあれば育たんものも、あるという事になりますから。責任重大なんですね。
 ならこれはまたここで、先生と言われる方たちまたは総代幹部と、言われる方たちもやっぱ同じような事が言えるのですよ。総代さんがいいよなさるのだから、間違いがなかろうと皆こう思うのですから。ね。先生方が言いよなるちゃっけん、間違いが無かろうという事になるのですから。なかなかやはりそこで、信心の先輩が後輩をやはりその、手本になるような信心をしよらなければ。いけないという事が分かります。
 今朝から、大祓いは二度ほど間違えました。私一人と私は声が小さいもんですけん。自分一人で間違ってなくてずうと上げよる。すと久保山先生が声が大きいもんだから結局は久保山先生にその習って行く訳なんですね。だからごちゃごちゃになってしまう。ふっとその、久保山先生気付いてから「ありゃ親先生あげな所ばあげよんなさる」と思うから。また一遍やめてといてから、私について来て下さるわけなんですね。
 だから声の大きい人なんかは、大祓いあげるときは特に注意しなきゃいけませんね。私の様に、こまい声であげなんならんというわけではないですよ。本当に間違いのないあげ方をしなければいけないと言う事です。ね。問題はですやはり声の大きい人に取られてしまいます。いかに声の大きい人は、間違いのない上げ方をしなければならんかという事が分かるでしょうが。
 夕べ私共は神饌丁度もう2時だったでしょうかね。一通り神饌が終わりましたのが。そのお供えのなんというても一番初めに出る。お鏡さんが(笑)もう出してみて驚いたんです、まるっきりその。昨日ついたばかりのお鏡さんがですね。(  )パンのようにこんなんなっているんです。こんなにその斜めに置いてあるもんだから。下にだれてしまっておる。そしてそのおぼんに、おぼんのかたがついて。
 もうどんなに丸めてみてもどんなにしてみても。割れるだけで結局こんな具合になってしまっているんです。本当に折角のその、真心で今度の謝恩祭にというてからお供えなさったもち米のお供えをなさった方もおる。昨日はもうわざわざもうそれこそ。もうのこくずから持ってきて、焚きもんから割ってそしてからその。霊神様と両方の、両方のいわゆるふた重ねのお鏡さんをつく為にです。
 もう殆ど午前中御用をされた方達が4、5人あります。そこまでおかげを頂きながら一番最後の実意の無い事というか、不注意というか。ね。ただこんな置き方をしておったばかりに、今日のお祭りに使えないことになったんですよ。ね。まあ極端な言葉でいうなら。皆の真心をたった一人の不注意の為に踏みにじってしもうたという事になるのですよ本当に心掛けなければいけません。これはその総責任は私にある。
 けれどもそれを御用をされる方。ね。それが矢張り一人一人実意を持ってしなければいけない。ね。ここまでいわば十のものがその。九分九厘までおかげを頂いても、あとの一厘の不注意の為に台無しにしてしまうという事なんです。本当に最後の最後まで、私は注意しなければいけないと思いますですね。これは例えばんなら、信心の教導と言う事等は、尚更その事が言えれると思うのですね。
 教導の例えばそのいかんによってです。何時までもカボチャならカボチャがほうからかしになるほど。庭中に這いまわって実もなりましょう。けれども、いつまでもいわば、この大地にほうたような信心だけしか出来んのではいけんでしょう。私がどんなにあの人カボチャのごたる人と思いよったら。というて皆から見上げられるようにです、カボチャどんでもつくってやってです。
 道を作ってやったら、見事にそのかぼちゃが。ね。実るようなそういう道付をしてやらなければ、いけないと思うのですよ。ね。成りさえすりやよいぢゃいかん、見上げられるようなおかげいうなら。信心のある者と無い物の違いがはっきりして来る様な教導をさせて頂けなければならんなと私今日、特にそう思うのです。椛目に10年も参りござるげなが、信心のある者と無い物とどこが違うかと。信心の無いもんでんあげな事言うたりしたりせんぞと言う様な、いわば、椛目に信者があるとするならば。
 私これは本当に責任問題だと自分で思います。ね。あげな人、ち言うたらおかしいけれども、いうならめぐりの深い人が。信心して段々めぐりのおとり払いを頂いて。ね。難儀な所から、有り難い所に。ね。心の上にも形の上にも内外共におかげを頂いて、いうなら信心のない人達から見上げられる様な。私は実りのおかげを頂いて。始めて有り難い事になってくるのではないかとこう思うのです。その道付けというてもです。成程ここでは私に総責任がありますけれども、私だけにいわずに。
 ここで先生と言われておる方達がです。総代幹部と言われておられる方達がです。いわゆる信心の先輩と言われる方達がです。やはりこういう道を辿らせて頂いたらこういう、おかげを頂いていきよるという。その手本になるような信心が段々。なっていき進められて行かなければいけないと私は思う。只なっただけではいけん。例えて申しますならです、本当にあれはぼうふらのごたるやっちゃねというような人でも、たまを作ってやり道を作ってやると、見上げられるようなことになるように。
 私共のようなつまらん人間でも、神様のおかげで、親先生のおかげで、道を付けて頂き。その道を辿らせて頂きよったら、段々おかげでまあいうなら。先生といわれるような所に。目をみならせて頂くように段々なってきた。ね。ですから皆さんとてもやっぱり同じ事。ただ信心は話を聞くだけが脳ではないと仰る。信心するばかりが脳じゃない。信心させて頂いたら信心にならなければいけん。
 話を聞かせて頂いたら、話が身に付いて、血肉になっておかげを頂いていかなければいけない。そしてそれを後から上ってくる後輩にもね。かくしておかげを頂いた、ここん所にはこういう落とし穴があった。ここん所ではこういう風な失敗をした。皆さんはここん所で失敗をなさっちゃいけませんよと言う様な、導き方の出きるような信心に、育たなければいけないとこう思いますね。
   おかげを頂かねばなりません。